宮城新昌と牡蠣養殖技術発祥の地<石巻市>
この宮城県石巻市の万石浦(まんごくうら)湾や牡鹿半島に位置する荻浜湾は「世界の牡蠣王」と呼ばれた「宮城新昌」が、牡蠣の種苗・養殖の最適地として研究・開発に取り組んだ地であり、この地で行った養殖研究は今や世界の食用牡蠣の80%が石巻にルーツを持つと言われる。
※万石浦、男鹿半島について
宮城県石巻の万石浦、牡鹿半島は三陸エリアに位置し、緑豊富な北上川の真水が注がれる汽水海域(塩分濃度が0.5~3.5%と薄い)。植物プランクトンが豊富で牡蠣養殖の最適地とされています。さらに海域は親潮と黒潮がぶつかりあう好漁場でもあり、海洋資源が豊富なエリア。
新昌は1884年(明治17年)沖縄県大宜味村(おおぎみそん)に生まれる。明治38年にアメリカ(ハワイ)オハフ島で砂糖キビ耕作などをはじめ農業に携わる。
24歳のときにハワイから本土アメリカに渡り、ワシントン州オリンピアのオリンピアオイスターカンパニーに入社。そのとき牡蠣養殖が有望な事業であることを知る。
新昌は独立を目指していたが、その後ワシントン州では、日本人の漁場権取得を認めていなかった為、カナダににわたり水産会社の重役として就任。日本種の養殖場をスタートさせる。
その後1913年(大正2年)日本に帰国。日本での牡蠣養殖事業の有望性を提唱し、神奈川県に養殖会社をスタートさせた。
1919年(大正8年)アメリカに輸出された種牡蠣のうち、大型の牡蠣はほとんど死滅する一方、貝殻に付着していた稚貝は生きている事を見つけ、稚貝の方が長期輸送に耐える事を発見した。
1925年(大正14年)には稚貝の付いた貝殻を縄に通し海中に垂下する方法「垂下式養殖(すいかしきようしょく)」を考案。同年、牡蠣の養殖と種牡蠣の養殖の最適地として石巻市の万石浦を選び試験筏を設置、1927年(昭和2年)から万石浦において大規模な養殖を行い始めた。
1931年(昭和6年)からは、牡鹿半島東海域に位置する荻浜湾でも牡蠣養殖と種牡蠣の採苗が行われるようになった。
その後、この方法が広く国内へ普及し、石巻よりアメリカやヨーロッパへ種牡蠣の輸出が盛んにされ、様々な人達の努力と知恵で現在の養殖方法へ移り変わり、外洋でも養殖の出来る形「延縄式垂下式養殖(のべなわしきすいかしきようしょく)」になった。
「宮城新昌」と「三養水産」の関係
牡蠣養殖研究開発を行うにあたり、新昌は従兄弟の「宮城幸助(長男)」と「宮城助次郎(次男)」の協力のもと牡蠣養殖研究・開発事業を行っていた。そこへ、幸助・助次郎の兄弟の三男「宮城助三」の紹介がきっかけで、弊社初代社長である「辻隆三」が新昌のもと「國際養蠣(こくさいようれい)」に務め始めた。
次第に隆三も養殖研究の頭角を現し始め、この地での牡蠣養殖研究を任せられる事になり後に隆三は、幸助(長男)の娘・米子と結婚、現在は2代目社長「辻壽一」が養殖事業から加工事業へと切り替えをはかり現在の三養水産に至る。
隆三は新昌の会社である「國際養蠣」を引き継ぎ、海外への稚貝の輸出や地域の牡蠣養殖事業発展に携わり、さらにワカメなどの人口養殖研究にも取り組みそして成功を収め「ワカメ養殖の先駆者」として地域活性に奮闘した。
三養水産は、昭和34年に創業を始め、昭和39年には三養水産株式会社として法人組織へ移行し、当時牡鹿半島に位置する荻浜より万石浦湾沿いへ拠点を移し、現在は牡蠣を主体とした加工を始め多種多様な食材の冷凍加工商品の開発・製造・販売。
平成21年には、従来ではあまり流通されていない生食用の冷凍牡蠣を開発。平成22年には経済産業省の地域資源活用事業に認定され今日に至る。
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